「どうもわからないのよね」
「なぜ、そうなるのかしら」
理解をしたいということの本質は他者や出来事を取り巻く全てをまるごと受け入れるということになるのでしょう
そして、それがゆくゆくは自己受容の核を腑に落とす一つの鍵となるのです
自分にない価値で生きる他者
自分なら無理だなと感じる出来事
「私はこの秤で他者や出来事を計ります」と決めて生きている訳ではないのですが、経験や体験、環境から得られた感覚を無意識に秤として使っています
その秤を使い、腑に落としスッキリさせたいのですが、秤の目盛りにない重さや大きさ、あまりにも軽く小さいものはどうも、腑に落とすには雑になってしまうものです
目盛りにないのです。ではいったいどうしていきましょうか
仮に雑だとしてもだいたいの自分の中の理解という仮の解に行きつき、外側にみせられたんだからと、自分軸というものを確立してみたりもするでしょうか
自己犠牲の上に成り立つ受容は理解の本質の核を捉え損ね、挙句、仮の自分軸に満足し、自己中心的な思考へと繋がってゆきます
自分はこうだから、という解は一見、自分軸という秤で他者や出来事を測っているように思考として感じますが、自己中心的思考であり自己犠牲丸出しです
今の自分がこうだから、こう感じるから、〜だからという理由づけをし自分を説得させる行為は犠牲の上にあるのでしょう
もちろん、感じるという行為が大事な一間もあります。傷つきすぎていたり、感覚が鈍くなっていたりする時期は、感覚を正常に戻す必要もあります。しかし、そこに留まることは不自然でもあるのです
今の自分への理解の核はいったいどこにあるのか、秤の目盛りを最大限にし、または最小限の限界値を越え、外側への理解へそして自己受容へ繋げてゆくのです
そこにきっと納得という外側も内側もない、腑に落ちる本当の理解を得る事ができるのではないでしょうか
Let's understand each other!
LOVE&PEACE !
「どうもわからないのよね」
いいですよね、個人的には、わからないって、ワクワクしてしまいます
本日もご縁に感謝です🙏
お読み頂きありがとうございます
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